文豪ストレイドッグス を読んで

文豪ストレイドッグスという作品がある。

有名な文豪たちと同じ名前のキャラクターが、作品にまつわる特異な能力を使って戦ったり、仲間を支えたり、敵対する組織に立ち向かっていったりする——そういう、少し不思議なバトルものの物語だ。

たとえば太宰治が「人間失格」という能力で敵と対峙する。

生前の本人がそれを聞いたらどんな顔をするだろうか、と想像すると、なんだか少し可笑しい。

キャラクターたちは格好良かったり、妙に愛らしかったりして、気がつくと心の深いところに入り込んでくる。アニメも漫画も小説も、ほどよい距離感で揃っていて、どれも手に取りやすい。

娘が“どハマり”した日のこと

娘がこの作品に出会ったのは、小学校三年の頃だった。

そのときはまだ、彼女の中の何かが噛み合っていなかったのだろう。アニメを見せても、「ふーん」という曖昧な反応をするだけで、興味を示す気配はなかった。

ところが四年生になり、友達の影響が加わると、彼女はまるで別人のように文ストへ飛び込んでいった。

スイッチというものは案外そんなふうに、前触れもなく入る。

アニメを観て、次に小説版を手に取らせると、彼女はそれを驚くほどすらすらと読み進めてしまった。

僕としては意外だったけれど、子どもというのはときどき、こちらの想像を軽々と飛び越えていく。

文ストが、現実の文豪へとつながっていく

文ストをきっかけに、我が家では実際の文豪の作品を読むようになった。

文豪という言葉にはどこか敷居の高いイメージがある。誰もが知っているのは、たとえば芥川龍之介や宮沢賢治あたりの“メジャーどころ”だろう。

ところが文ストを通じて、我が家では自然に泉鏡花や国木田独歩といった名前が会話に出てくるようになった。

普通に生きていれば、そんなことは一生起きないかもしれない。だが、物語というものは、ときに人を思いがけない場所へ連れていってしまう。

興味は作家の人物像へ広がり、やがてはその生まれた土地へ足を運んでみようという話にまで発展した。

いわゆる“聖地巡礼”というやつだ。

少しマニアックな旅ではあるけれど、悪くなかった。

むしろ、たくさんの発見があって、思いのほか豊かな時間になった。

子どもの興味というものについて

子どもが何かに夢中になるとき、その入口は——たぶん——もっと単純だ。

「かっこいい」

「かわいい」

その程度の衝動で十分なのだ。

大人になっても、泉鏡花や国木田独歩の名前すら知らずに人生を終える人は珍しくない。それが悪いわけではない。

ただ、僕たちは偶然にも、漫画やアニメのビジュアルという“入口”を通して、文豪たちの世界にたどりついた。

それはちょっとした奇跡のようにも思えるし、ただの偶然のようにも思える。

でも、僕の実感としては、それでいいのだと思う。

興味というものは、いつだって思わぬところから静かに生まれるのだから。

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