ヘタリア を読んで

ヘタリアという不思議な作品がある。

世界のいろんな国々が、人の姿をしたキャラクターとして登場して、歴史の一場面を肩の力の抜けたテンポで語り合ったり、軽口を叩き合ったりする。国際問題をあんなにゆるく扱って大丈夫なのか、と思う瞬間もあるけれど、まあ作品というのは大抵、そういう“枠”から少しはみ出しているほうが面白かったりする。

イタリアは陽気で、ドイツは真面目で、日本は控えめだ。

国のイメージをそのまま擬人化したような存在で、そこにはある種のステレオタイプが潜んでいるのだが、それを深刻に問題視するほど僕たちも堅苦しくない。だいたい、こういうのは半ば冗談として楽しむのが健全なのだ。

娘もこの作品をひどく気に入っていて、気づくとページをめくりながら声をあげて笑っている。

国家の擬人化キャラを相手にあれこれ感想を語る姿を見ると、教育の本筋とは少しずれているのかもしれない。けれど、彼女が楽しんでいるなら、それはそれで悪くない。学びというものは、意外とそんなところから芽を出したりする。

ヘタリアを文学と呼べるのか、正直なところ僕にはよくわからない。

でも“文学って何だろう?”と考え始めると、答えは案外どこにでも転がっているような気がしてくる。

たとえば、キャラクター同士の軽妙な掛け合いの中に、人間のどうしようもなく滑稽な部分がふと顔を出す瞬間がある。

それは立派に文学的な“匂い”をまとっている。

マンガだって、小説だって、エッセイだって、結局のところ人の心を動かすためにある。

だったら、ヘタリアが文学であろうとなかろうと、そんなことは大した問題ではないのかもしれない。僕の中では、娘と笑った時間がちゃんとそこにあって、それだけで十分なのだ。

世界が擬人化され、歴史がコメディに変換される。

そんな奇妙で軽やかな作品が、今日もリビングのテーブルの上で開きっぱなしになっている。

それを見ながら、僕はなんとなく「まあ、マンガも文学みたいなものだ」と思う。

だいたいのことはそういう軽い気持ちで捉えたほうが、世界はずっと読みやすくなる。

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