夜と霧/ビクトールフランクル を読んで

最近、娘が世界史に興味を持ち始めた。

年号よりも、その背景にある「時代の流れ」に触れようとしているように見えた。

そのタイミングに合わせるように、フランクルの『夜と霧』を読んだ。

■ 重いテーマを、静かな筆致で描く本

ナチスの収容所という重い題材を扱っているにもかかわらず、

文章はどこか澄んでいて、読者に過剰な圧力をかけてこない。

心理学としても、歴史の証言としても、一人の人間の物語としても読める本だ。

ただ、前提となるヨーロッパの歴史や、その時代の空気感がないと、

どうしても物語の輪郭が曖昧になる。

少しでも背景を知っていると、一気に視界がひらける。

■ 娘の理解が深まった理由

小さな“点”が、ゆっくり線へと形を変えていった

娘の場合、その背景が自然に整っていた。

『ヘタリア』で国々を擬人化して楽しんでいたこと。

大阪万博で世界の広がりに触れたこと。

青柳碧人の『乱歩と千畝』を読み、第二次世界大戦期の空気に少し触れていたこと。

これらは偶然そろったわけではない。

かといって「これを読め」と押しつけたわけでもない。

世界史の入口を、日々の生活のすみでそっと転がしておくような感じだった。

興味が動いたとき、娘が自然に拾っていけるように。

そして、『夜と霧』を読んだとき、

それらの点がすっと一本の線につながったように見えた。

理解というのは、こういうふうに形になるのかもしれない。

■ 親として感じたこと

フランクルが語る「状況は選べなくても、態度は選べる」という言葉は、

年齢を問わず心に残る強さがある。

でも、その言葉が腑に落ちるには、

世界や歴史に対するいくつかの“点”が、事前に心に置かれている必要がある。

読書とは、そういう点が静かにつながっていく過程そのものだ。

今回、その“線が立ち上がる瞬間”に立ち会えたのは、素直にいい体験だったと思う。

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